日本のメディアが「正しい」と考える報道をしても、大衆の反発が激しくなると委縮してしまう、という現象は、どの国でも程度の差こそあれ生じます。群衆心理はときに嵐のようで、そこに立つ報道機関はどうしても風圧を受けます。だからこそ、各国は“風よけ”となる制度をあれこれ工夫してきました。
海外に目を向けると、いくつかの国にはメディアの独立性を制度的に守る仕組みがあります。ここで言う「制度」は、魔法の盾ではなく、むしろ「社会が政治権力や世論の圧力に対抗するための足場」のようなものです。
たとえばドイツでは、公共放送の監督委員会の構成を細かく法律で規定し、政党や政府が直接支配できないようにしています。委員の多くは市民団体や宗教団体、大学など――“多元的社会の切り身”みたいな構成になっているので、特定の勢力が一気に空気を支配しにくい形です。
イギリスでは Ofcom(オフコム)という独立規制機関が放送の監督を担っていますが、ここは政府から距離を置く設計がされています。報道内容そのものに口を出すためではなく、政治からの干渉を防いだり、極端な圧力がかかったときに緩衝材になったりする役割がある。イギリスは長い間、タブロイド紙の暴れ馬っぷりと公共放送の重厚さが同居してきた国なので、制度は自然と「騒音に沈まないための調整弁」になりました。
アメリカでは、憲法修正第1条が報道の自由を強く保障しており、政府が報道内容へ介入することは極めて困難です。法律というより“国家の理念が巨大な保護膜になっている”タイプです。とはいえアメリカでも世論の嵐は強烈で、SNS炎上の渦は記者を押し潰しうるので、魔法のような万能策があるわけではありません。
北欧の国々にも特徴があります。スウェーデンの「出版の自由法」は世界で最も古い報道自由法のひとつで、記者を暴力や脅迫から守る仕組みや、公文書公開制度(オープンアクセス)を明確に書き込んでいます。フィンランドやノルウェーも似た伝統があり、「国家と世論の双方から独立するために、透明性を極限まで高める」という思想が強い。
興味深いのは、多くの国で“世論からの圧力そのもの”を法律で盾にして防ぐのは難しい、ということです。法律ができるのは、せいぜい政治権力の過度な干渉を防ぐことと、メディア内部に多様性を確保すること。それでも、嵐に耐える柱は太くなる。
日本の場合も、制度が不足しているというより、「法律に頼る前に組織文化や業界間の相互支え合いが弱すぎる」という側面があると分析できます。メディアが互いに守り合い、ジャーナリズムの基準を共有し、攻撃されている媒体があれば横陣を組んで庇う、という生態系が成熟している国は、嵐に強い。
制度の比較を追っていくと、報道の自由は法だけで支えるには脆弱で、社会の作法や文化の蓄積も必要になるという、なかなか含蓄のある景色が見えてくるものです。